2017年2月9日木曜日

第4回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。第4回の10問をまとめて解説します。

(第4回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 昭和30年には何があったでしょうか?
E 昭和40年には何があったでしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 千日前楽天地
B エスカールなんばビックカメラ
C 千日前墓地
D 大阪歌舞伎座
E 千日デパートビル


 楽天地(らくてんち)は、1914年(大正3年)から1930年(昭和5年)まで大阪市南区難波新地四番町(現・中央区千日前)にあった劇場・演芸場・レジャーの殿堂。大正時代の大阪を代表するハイカラな名所でした。

 1912年(明治45年)1月16日、「ミナミの大火」によって難波新地から西高津新地、生国魂神社あたりまでが焼失しました。ミナミの壊滅的な被害で繁華街の灯が消えることを危惧した南海鉄道の社長は、近代的なレジャーセンターを作って復興したいと考え大阪の興行界の実力者・山川吉太郎に声をかけました。彼は当時、活動写真館や演芸場を経営し役者をアイドルとして売り出す才能の持ち主でした。南海の出資で彼はすべての娯楽を詰め込んだレジャーセンターを構想します。

 焼け跡整理にあたり、現在の千日前通にあたる東西の通りが拡幅され電車通りとなります。同時に、電車通りにできた新しい千日前交差点の南西隅に、山川吉太郎は1914年(大正3年)5月に一大娯楽センター「楽天地」を建設、一躍市内のハイカラな名所となりました。

 地上3階建てで多くの尖塔を持ち、中央には円形ドームを載せ、夜はイルミネーションで彩られていました。館内は大劇場と二つの小劇場で芝居・演劇・映画を公演。大劇場では主に外国の映画を上映、小劇場「朝陽殿」は男性向けの漫才などの演芸場、小劇場「月宮殿」は琵琶少女歌劇で、悲恋物など若い女性向けの泣ける芝居を上映していました。この中の少女スターが後の名優田中絹代です。地下にはメリーゴーランド、ローラースケート場、水族館などもありました。屋上ドームを回る螺旋階段を登るとドーム上に大阪市内を見渡す展望台があり人気を集めました。

 楽天地も御堂筋沿いのデパートなどさらに新しい名所に押され、また山川吉太郎の映画制作で多額の借金を抱えたことで営業が立ち行かなくなってきました。帝国キネマが1930年(昭和5年)に撮影所を焼失したのと時を同じくして、同年、楽天地もついに閉鎖しました。

 その跡地には1932年(昭和7年)には松竹経営で7階建て、3000名弱収容の南欧風近代建築「大阪歌舞伎座」(御堂筋にある大阪新歌舞伎座(2009年6月30日閉鎖)の前身)が誕生しました。

 1958年(昭和33年)、新歌舞伎座竣工後は、旧歌舞伎座ビルは千日デパートとなりましたが、1972年(昭和47年)の千日デパート火災で多数の死者を出します。その後長らくビルは放置され、1983年(昭和58年)ようやく取り壊されダイエー系のデパート「プランタンなんば」に建て替わり、「カテプリなんば」と改称したのを経て、現在はビックカメラなんば店(エスカールなんば)となっている。以上、ウィキペディアより引用しました。



(第4回第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の赤丸の建物の場所にはその後何が建てられたでしょうか?
E その建物はいつまで建っていたでしょうか? 

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 大阪株式取引所
B 大阪取引所
C 金相場会所
D 大阪証券取引所
E 2000年(平成12年)3月閉館、2001年(平成13年)10月取り壊し

 大阪取引所(おおさかとりひきじょ)は、株式会社日本取引所グループの子会社で、金融商品取引所。所在地の大阪市中央区北浜一丁目にちなんで「北浜」とも呼ばれています。

 諸藩の蔵屋敷があった江戸時代の大坂の米穀取引所を起源に、五代友厚らが発起人となって設立された大阪株式取引所が前身で、金相場会所の跡地にあります。なお、1730年(享保15年)に設立された堂島米会所で行われた帳簿上の差金の授受によって決済を行う「帳合米取引」が、世界で最初の公設の商品先物取引と言われます。この伝統から、大阪株式取引所の草創期から帳合米取引をベースにした定期取引(および後の清算取引、現行法でいう先物取引(futures)の方法にあたる)が行われていました(終戦後、証券業界では証券取引法に基づく証券取引所開設の際に証券業界で清算取引の再開を求めていたが、GHQにより清算取引の禁止を求められた経緯もあり個別株式の先物取引の復活は今日に至るまで実現されていません)。

 戦後は東京証券取引所とともに日本の株式市場の一翼をなしていたが、東証との経営統合や、持株会社の日本取引所グループの子会社化を経て、日本取引所グループでのデリバティブ(金融派生商品)専門取引所に位置付けられ、現物市場を東証に移管し、東証からデリバティブ市場の移管を受けて、2014年3月24日に現社名の「株式会社大阪取引所」に改名しています。

 現在の大阪取引所ビルは、平和不動産の所有で、下層階は旧市場館の外観を保存したものとなっています。エントランスホールの大型モニターには、大阪取引所の顔である日経225先物取引の取引値が表示されています。 テナントは、地下1階と1階に「ポンテベッキオ」など飲食店が、2階は銀行とクリニック、3階には大阪経済大学(北浜キャンパス)が入居し、社会人向けの実践的カリキュラムを提供している。5階は見学スペース「OSEギャラリー」(2015年2月2日オープン)となっています。オフィス棟の上層部にはオフィスや証券会社が多数入っています。

 旧市場館は1935年長谷部竹腰建築事務所の設計で竣工。施工は大林組。2004年の新ビルでも円形のエントランスホールの外観のみ残されています。

浪華名所獨案内の北浜付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の北浜付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の北浜付近(今昔マップ3より)


(第4回第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の赤丸印の建物の場所にはその後何が建てられましたか?
E その建物はいつまで建っていましたか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。



解答と解説
A 加島銀行
B 大同生命保険本社ビル
C 加島屋
D 大同生命肥後橋ビル
E 1990年(平成2年)

 NHK朝のドラマ(連続テレビ小説)「あさが来た」のモデルとなり、一躍有名になった大同生命とその前身の加島銀行、加島屋です。加島銀行の歴史をウィキペディアにより振り返ると、
≪江戸時代から続く大阪の豪商・加島屋(かじまや)の両替店を母体に1888年(明治21年)設立。1902年(明治35年)には、大同生命保険の設立にも関与する。昭和恐慌のあおりを受け経営危機に陥り、1929年(昭和4年)鴻池銀行、野村銀行、山口銀行の3行に分割、買収される。1937年(昭和12年)廃業。行章は光を図案化した中央に「加」の字を配していた。≫
とあり、広岡家は大同生命に経営を集中し、加島銀行は現在の三菱東京UFJ銀行とりそな銀行につながっていることになります。

 一方、大同生命の歴史を同社のホームページに見ると、
≪明治35年7月 「加島屋」が主体となって、朝日生命(旧社名真宗生命:明治28年設立)、護国生命(明治29年設立)、北海生命(明治31年設立)の3社が合併、<加入者本位・堅実経営>を創業の精神として、大同生命保険株式会社を創業。社名は、「小異を捨てて大同につく」に由来。
明治42年1月  本社を大阪市西区江戸堀に移転。
大正14年6月  本社を大阪市西区土佐堀通1丁目1番地(現大阪本社所在地)に移転。
昭和22年7月  大同生命保険相互会社として再発足。
昭和47年10月 本社を大阪府吹田市江坂町1丁目23番101号に移転。
平成 5年10月 大阪本社を大阪市西区江戸堀1丁目2番1号に移転。≫

 以上の資料によると、大正13年1月発行の大阪市パノラマ地図に、土佐堀通と四つ橋筋が交わる肥後橋交差点に面して描かれている建物は加島銀行であることがわかります。

 ヴォーリズ建築事務所の設計による大同生命肥後橋ビルは、1922年(大正11年)10月4日着手されましたが、工事途中に突発した関東大震災をふまえて工事を中止しました。耐震性の向上のため当初計画の10階建てを9階建てにするなどの設計変更が加えられ、1925年(大正14年)6月6日に落成しました。完成に合わせて大同生命の本社はかつて加島屋本家があったこの地に移り、そのほか、加島銀行や広岡合名会社などの各社が居を構えました。

加島屋本家
大同生命肥後橋ビル
加島屋本家の碑

 現在の大同生命保険の大阪本社ビルは、ヴォーリズ設計の旧本社ビルを建て替えて誕生しました。大同生命の本社は昭和47年に吹田市江坂町に移転しましたが、本社ビルの完成にあわせて平成5年、再びここ土佐堀の地に戻ってきています。
 装飾的な部分は旧ビルの様式を引き継いでいますが、このビルを特徴付けている下層部の扇型の広がりは新ビルになってからのものです。 ヴォーリズの流れをくむ一粒社ヴォーリズ建築事務所と日建設計が設計しました。大阪都市建築景観賞を受賞しています。


浪華名所獨案内の肥後橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の肥後橋付近
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の肥後橋付近(今昔マップ3より)


(第4回第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 横を流れている川の名前は?
E 川の対岸に神社がありますが、その名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 三菱鉱業大阪精錬所
B 大阪アメニティパーク(OAP)
C 津藩蔵屋敷
D 淀川(大川)
E 桜宮神社

三菱鉱業大阪精錬所は、明治24年(1891年)に宮内庁御料局生野支庁付属大阪精錬所として発足し、明治29年(1896年)に三菱合資会社が払下げを受けたものです。
大正7年(1918年)4月に三菱鉱業(後の三菱鉱業セメント)が設立され、三菱合資会社より鉱業事業を継承しました。大阪市パノラマ地図にはこのころの様子が描かれています。
その後、昭和25年(1950年)4月に太平鉱業(後の三菱金属)が設立され、三菱鉱業の金属部門を継承しました。
平成元年(1989年)には、大阪製錬所を閉炉し、金製錬部門を直島製錬所、銅製錬部門を堺工場に移管しました。
平成2年(1990年)12月に、三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し、三菱マテリアルが発足しました。

大阪アメニティパーク(おおさかアメニティパーク)は、大阪市北区天満橋一丁目を中心とした約5haのエリアにある複合施設です。略称はOAP。三菱マテリアルと三菱地所が共同で行った三菱金属(現・三菱マテリアル)大阪製錬所跡地の再開発として、1996年から2000年にかけて順次開業しました。

平成8年(1996年)1月:OAPタワー竣工
平成10年(1998年)2月:OAPアートコート竣工、3月:OAPレジデンスタワー東館入居開始
平成12年(2000年)12月:OAPレジデンスタワー西館入居開始

核となる高層ビルはOAPタワー(軒高176m)です。大川(旧淀川)のほとりのウォーターフロントという恵まれた立地を活かし、オフィス、ホテル(帝国ホテル大阪)、ショッピングエリア、高層住宅などが集約した大規模複合開発プロジェクトであった。所々に製錬所を模した建築デザインになっている。一部箇所は当時の建築物を移設・復元したものを使用しています。また、分譲されたOAPレジデンスタワーを除いた施設全体は「OAPタワーズ」と呼ばれています。

OAPに面して流れている大川では遊覧船「アクアライナー」、グルメ・ミュージック船「ひまわり」が運航しており、OAP内にある大阪水上バスOAP港から乗船することができます。
南側には、泉布観と旧桜宮公会堂があり、リニューアルされてイベント会場、レストランになっています。

浪華名所獨案内の川崎付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の川崎付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の川崎付近(今昔マップ3より)


(第4回第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 堂島小橋が架かる川の名前は?
E 当時は何区でしたか?

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解答と解説
A 大日本紡績福島工場(もと日本紡績本社工場)
B 下福島公園
C 野田村の低湿地帯
D 曾根崎川(蜆川)
E 北区

 日本紡績は明治26年2月7日に創立し、本社工場は大阪市下福島(大阪市北区西野田平松町)に建設されました。この工場が後の大日本紡績福島工場であり、当時は野狐がさまよう寂しい所であったと記されています(『大日本紡績株式会社五十年記要』)。
 福島の本社工場は、その後周囲が市街地となって拡張の余地がなくなり、また建物も2階建ての旧式工場であったので、大日本紡績時代の昭和11年8月7日に閉鎖され、主要設備は一宮工場に移されました。
 戦後はユニチカの本店社宅白鳳荘が敷地の一角に建設され、その後昭和53年4月からユニチカ建設不動産事業本部によって「ユニライフ福島」が分譲マンションとして建設され、今日に至っています。

 かつての大日本紡績株式会社(現ユニチカ株式会社)の主力工場であった福島工場跡地には、大阪厚生年金病院などと共に下福島公園が建設されました。福島区内では福島公園に次いで古い公園であり、面積は区内で最大規模を誇っています。
 1894年(明治27年)に日本紡績株式会社本社工場が建設されたときの赤煉瓦壁の一部が公園東側の境界に現存しています。この壁は1945年(昭和20年)6月の大阪大空襲や1909年(明治42年)の北の大火の火災延焼を食い止めたものの一部です。(実際に延焼を食い止めたのは福島4丁目3番地付近の工場外壁で、壁の高さは3.5mほどあったといわれています。)

 公園内にはこの地が発祥の地といわれ、区の花にも指定されているノダフジ(野田藤)が栽培されています。また、足利義詮や豊臣秀吉も訪れた藤庵の庭も復元されて公園内に移設されています(ノダフジ発祥の地の碑は、玉川2丁目の春日神社内に建立されています)。

 2001年に下福島プールが改築され、新たに屋内プールおよびトレーニング施設がオープンしました。野球グラウンドが2面取れる下福島運動場では、平日は近隣の小中学生の授業やクラブ活動などが、休日には会社員などの野球チームが試合を行っています。 また、下福島運動場の外周に沿って1周480mのジョギングコース(舗装)も整備されています。



浪華名所獨案内の下福島付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の下福島付近
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の下福島付近(今昔マップ3より)


(第4回第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の右側の川の名前は?
E 赤丸の左上の大きな文字「新」は何でしょうか?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 住友伸銅所
B 大阪市中央卸売市場
C 安治川新地と野田村
D 安治川
E 新堀

 住友伸銅所は、明治30年(1897)4月1日 日本製銅株式会社を買収して住友伸銅場として開設され、銅・真鍮類の板・棒・線等の製造を始めました。大正2年(1913)6月に住友伸銅所に改称され、大正10年(1921)2月に、住友合資会社伸銅所が発足しています。昭和10年(1935年)9月に、住友製鋼所(旧・住友鋳鋼場)と合併し、住友金属工業株式会社が発足しました。

住友伸銅所安治川工場全景(大正年間)
(株式会社UACJ銅管HPより)
 住友伸銅所の跡地に建設された中央卸売市場については、大阪市のホームページによると、
 ≪毎日の食卓にならぶ野菜、果実、水産物などの取引の場である市場が大阪に誕生したのは、大坂城が築かれた頃でした。その後、江戸時代に入って、人口が増え、「天下の台所」として大阪の町が栄えるにつれて市場は各地の水路と陸路交通の要所に発展し、庶民の暮らしに広く定着するようになりました。なかでも、昭和のはじめまでにぎわった有名な市場として、天満、ざこば、靭(うつぼ)、木津、難波などがありました。

 第一次大戦が終わった大正7年頃は、経済情勢が不安定であったため、物価への影響を危惧した本市は、大正7年4月に公設小売市場を設置し、日用品の廉売と物価の安定を図った。同年7月に起きた「米騒動」は、国民の食生活に影響が多大であったことから、国においてもその対策を検討することになり、本市の公設小売市場の設置に刺激され、生鮮食料品の取引の正常化、適正な価格形成を目的として、大正12年3月に中央卸売市場法を制定されました。

 本市においても、市民の食生活安定のために公設小売市場の親市場として、中央卸売市場の開設が必要であると判断し調査委員会等を設置し、検討を重ねました。その結果、水陸運ともに至便な福島区野田を最適地として決定し、全国に先がけて大正14年3月に国の認可を得て着工し、当時東洋一を誇る堂々たる総合市場として、昭和6年11月11日に現在の中央卸売市場(本場)が敷地面積約126,000平方メートルで開場しました。この開場と同時に従来から繁栄していた私設卸売市場については、中央卸売市場にほとんどが収容され、開場後1年間(昭和7年)の取扱量は39万トンに達しました。

 また、第二次大戦終戦直後の統制中は、生鮮食料品の集荷配給機関として本来の市場機能を一時中断しましたが、統制の解除とともに、昭和25年5月から仲買制度の復活など再び本来の市場の姿に戻り、取扱量も45万トンまで回復しました。

 昭和39年には、高度経済成長等により本場の取扱量も開場当時の2倍強の82万トンを超え、11月には取扱数量の増大に対応するため、東住吉区今林に東部市場を開場し、本場とともに、市民の台所として大きな役割を果たしてきました。また、食肉市場については、昭和33年、西成区津守に「市立と畜場」に併設して食肉卸売市場を全国に先がけて開場しました。

 その後も毎年1割近くの増加を示し、昭和45年に120万トンに達したことから、取扱量の増加や自動車輸送の激増に対処し、また、老朽施設の改善と狭あい・過密打開のため、拡張整備事業(現在の市場西棟)を実施し、昭和50年11月に果実・乾物等の部門を、昭和51年2月に漬物売場をそれぞれ移転しました。また、昭和51~55年度には東部市場の加工食料品売場と仲卸棟を整備し、昭和59年4月には、食肉市場が近代的で衛生的な食肉処理場などの設備を備えた南港市場として、住之江区南港に移転しました。
 
 しかし、本場開場から60年余を経て、施設の老朽化が著しく、耐震構造の施設への建替えや、生鮮食料品等にかかる流通環境の変化や多種多様な消費者ニーズ、情報化の進展への対応が求められていたことから、食品流通の基幹的役割を充分果たすことができる機能を有するとともに、環境対策や衛生面に配慮した廃棄物の処理施設等を備えた近代的な市場をめざし、平成元年度より抜本的な施設整備事業に着手しました。平成4年9月に業務管理棟が竣工し、その後引続き市場棟(現在の市場東棟)及び関連棟の工事を進め、足かけ10年に及んだ現地建替が平成14年11月に完成した。現在、更なる物流機能の強化を図るため、平成15年6月から配送加工棟の整備に努め、平成16年7月に竣工しました。≫

浪華名所獨案内の野田付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の野田付近
明治42年、昭和7年、昭和30年、最近の地形図の野田付近(今昔マップ3より)


(第4回第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 瓦斯会社と発電所の間を流れる川の名前は?
E 大きな「區」の字がありますが、この時代は何区でしたか?

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解答と解説
A 九条発電所
B 多根総合病院と京セラドーム大阪
C 市岡新田の田畑
D 尻無川
E 西区

明治36年(1903)9月 花園橋~築港桟橋間で日本初の公営電気鉄道として大阪市電が開業しました。その後、大阪市工務課の電気鉄道業務が大阪市電気鉄道課に改組されました。明治42年(1909)3月に配電事業を開始し、明治44年に大阪市電気鉄道部に改組されました。大正12年(1923)10月、大阪電灯からの事業買収に伴い大阪市電気局に改組されました。
昭和2年(1927)2月、平野~阿倍野橋間で市営バスの営業を開始しました。また、昭和8年(1933)5月、日本初の公営地下鉄として大阪市営地下鉄1号線(現・御堂筋線)が開業しました。
昭和17年(1942)4月に、配電事業を関西配電(現在の関西電力)に移管し、昭和20年(1945)9月、大阪市交通局に改組され、現在に至っています。以上、ウィキペディアから引用させていただきました。

大阪市パノラマ地図には発電所と九条車庫が並んで描かれていますが、当時は発電所で発電された電気は市電を走らせるだけでなく家庭用に配電されていました。そのためでしょうか、市電の停留所名は「車庫前」ではなく「発電所前」となっているのも面白いと思います。

大阪市パノラマ地図の九条付近

戦時体制になって配電事業が関西配電(現在の関西電力)に移管されるまでの間、当時の大阪市電気局は市電、地下鉄のほか市営バスも含めた交通事業と、現在関西電力が行っている配電事業の両方を担っていました。大阪市が関西電力の大株主となっているのもその名残です。
九条周辺には尻無川を挟んで西側に電気局、東側に瓦斯会社(現在の大阪ガス)の発祥の地があり、大阪の近代工業発祥のルーツともいえる役割を果たしてきたと考えられます。

尻無川は、昭和27年(1952年)に境川運河以北が埋め立てられ、岩崎運河が尻無川の上流をなすという現在の状態になりました。現在その上に、旧電気局と大阪ガスの用地にまたがって、京セラドーム大阪が建っています。
旧大阪市電気局庁舎は、年に東側の隣接地に建替えられ、跡地には大阪市消防局庁舎が建っています。消防局庁舎の北側には、電気局があった名残として、現在も関西電力の九条営業所があります。

浪華名所獨案内の九条付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の九条付近
明治42年、昭和7年、昭和29年、最近の地形図の九条付近(今昔マップ3より)


(第4回第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 「すゑよしばし」「くのすけばし」が架かっている川の名前は?
E 「いたやばし」「やすわたばし」が架かっている川の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 鰻谷住友邸
B 三井住友銀行事務センターと銅吹所跡史跡公園
C 住友銅吹所
D 東横堀川
E 長堀川

江戸時代の大坂には数多くの銅関連業者が集中していました。日本の生産量の約1/3を生産して、純度99%まで精錬可能という高い技術力を有していました。
大坂屋や平野屋など有力な業者がいましたが、中でも最大規模を誇ったのが泉屋(住友家)で、当地には住友家の店舗や住宅が隣接していました。泉屋は元和9年(1623)に大坂・内淡路町に銅吹所を開設。元禄3年(1690)に本店・居宅を同地に移転し、明治まで続きました。当時の幕府高官やオランダ人もよく視察に訪れたといいます。

明治9年(1876)に銅吹所廃止後に敷地は住友家の邸宅となりました。明治12年(1879)には洋館や庭園がつくられ、ビリヤード場はその東側に建てられました。
文明開化期に多くみられる「擬洋風様式」で、ビリヤード場玄関のアーチや円柱飾りは洋風ですが、壁は土蔵造り、屋根は瓦葺きで、洋風と和風とが混在しています。明治25年(1892)以前の建築と考えられており、独立建物のビリヤード場としては、わが国最古のものです。
以上、大阪あそ歩マップ集より。

浪華名所獨案内の鰻谷付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の鰻谷付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の鰻谷付近(今昔マップ3より)

住友銅吹所跡の碑
銅吹所跡史跡公園
日本発のビリヤード場
三井住友銀行事務センター



(第4回第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 明治時代後半には何があったでしょうか?
E 地図の右手に見えている川の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
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解答と解説
A 堀川監獄跡(扇町公園準備中)
B 扇町公園
C 北野村
D 堀川監獄
E 天満堀川

扇町界隈は、慶長3年(1598年)に天満堀川が開削されて以降、商人や寺社が多く集まり、船場に匹敵する商業と人口の集積が見られるようになりました。それ以前は、長らく大阪の北の境にあたり、さらに北上すると荒れ地に畑が散在するような地域でした。江戸期には刑場があり、明治15年(1882年)には堀川監獄が設置され、明治36年(1903年)に大阪監獄署と改称されました。

明治28年(1895年)5月に大阪鉄道(現在のJR大阪環状線)の天王寺~玉造が開業し、10月に梅田までの延伸により天満駅が開業すると、大川沿いの天満青物市場界隈から商店が立ち並ぶようになり、鉄道北側の市街化も進みました。大正9年(1920年)には大阪監獄が堺市へ移転(現在の大阪刑務所)し、解体3年後の大正12年(1923年)12月に扇町公園として開園しました。大阪市パノラマ地図には、監獄が解体され、公園の工事が始まった頃の様子が描かれています。

かつては大阪プール(現在は八幡屋公園に移転)が存在し、水泳競技を始め、多くのスポーツイベントが開催されたことでも知られます。大阪プールのスタート台(飛び込み台)がモニュメントとして公園内に残されています。

敷地は約7ha、キッズプラザ大阪(関西テレビ放送本社)、北区役所・区民ホールに隣接し、公園内には扇町プールがあります。マウンテンスライダーなどの大型遊戯施設もあり、天王寺公園、中之島公園などと比べて児童の遊技場的な要素が強い公園です。入場無料。(以上、ウィキペディアを参考にして加筆しました)

浪華名所獨案内の扇町付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の川崎付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の川崎付近(今昔マップ3より)


(第4回第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代の天保年間には何があったでしょうか?
D 「しもやまとばし」が架かっている川の名前は?
E 市電「磐舟橋」停留所がある道路の名前は?

※江戸時代の手がかりをつかむには、浪華名所獨案内を活用してください。
※大阪市パノラマ地図の全体は、こちらからご覧いただけます。



解答と解説
A 大阪市高津尋常小学校
B 国立文楽劇場
C 西高津新地
D 道頓堀川
E 千日前通

高津小学校は、明治4年(1872年)南大組第二大区十二番小学校として開校し、明治20年(1887年)大阪市高津尋常小学校に改称しました。明治45年(1912年)南の大火により校舎全焼。昭和9年(1934年)室戸台風で校舎が倒壊しました。昭和20年(1945年)3月大阪大空襲で校舎が全焼し、昭和21年(1946年)大阪市大宝国民学校(大阪市立大宝小学校)に統合され休校となり、昭和27年(1952年)大阪市立高津小学校として復興・再開校。昭和45年(1970年)に現在地(中央区高津3丁目4番21号)へ移転し、その後旧校地の跡地はしばらくはフェンスに囲まれた更地となっていました。

その後、国立文楽劇場が4番目の国立劇場として昭和59年(1984年)に開館し、大小2つの劇場と展示室などからなり、大ホール(文楽劇場)ではユネスコ無形文化遺産の人形浄瑠璃・文楽の公演を中心に演劇や舞踊などが行われています。小ホールでは奇数月に落語・漫才・浪曲などの興行「上方演芸特選会」が開かれ、東京の国立劇場における国立演芸場的役割も担っています。設計は黒川紀章氏、第2回公共建築賞最優秀賞を受賞しています。独立行政法人日本芸術文化振興会によって運営されています。

パノラマ地図に描かれている「いはふねばし」が架かっている堀川は高津入堀川で、江戸時代に西高津新地の開発に伴って開削されました。
1733年(享保18年)に道頓堀の南東の西成郡西高津村領内において西高津新地の開発が始まり、翌1734年(享保19年)に上流側約800mの区間が開削されました。

1740年(元文5年)には高津入堀川の堀止付近の東成郡天王寺村領内に天王寺銭座が設置され、翌1741年(寛保元年)から短期間ながら銅銭が鋳造されていました。天王寺銭座廃止と同年の1745年(延享2年)に西高津新地1~9丁目が成立し、大坂三郷に編入されました。

1752年(宝暦2年)になると、難波入堀川と難波御蔵の先例に倣って、江戸幕府が天王寺銭座跡地に天王寺御蔵(高津新地御蔵)を設置しました。しかし、多湿で米の痛みが早かったため、天王寺御蔵は1791年(寛政3年)に廃止され、難波御蔵に新御蔵が増築されました。

入堀で汚濁が激しく不衛生だったため、明治に入って難波入堀川と連結されることになり、明治31年(1898年)鼬川まで延長開削されました。西流および北流箇所はもと鼬川の流路を利用していますが、延長開削工事以降、難波入堀川との合流地点(現・阪神高速1号環状線なんば出口)より上流を高津入堀川、下流を鼬川と改められました。その後昭和43年(1968年)に埋立てられました。

浪華名所獨案内の高津付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の高津付近
明治41年、昭和4年、昭和32年、最近の地形図の高津付近(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/10/blog-post_5.html

第3回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/11/blog-post_24.html

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