2016年10月5日水曜日

第2回大阪市パノラマ地図検定解説編

大正13年発行の「大阪市パノラマ地図」から出題した、大阪市パノラマ地図検定の解説編です。

(第2回 第1問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 左側の川の名前は?現在はどうなっていますか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大学病院(大阪大学医学部附属病院)
B ほたるまち
C 富山、中津、延岡、久留米、秋田、上田、長岡、名古屋の各藩の蔵屋敷
D 曽根崎川(蜆川ともいう)。明治42(1909)年にキタの大火(天満焼け)が発生した際に、瓦礫の廃棄場所となって緑橋(梅田入堀川)より上流側が埋め立てられ、大正13(1924)には下流側も埋め立てられて消滅した。

 天保年間発行の浪華名所獨案内は当時の観光マップで、堂島は描かれているものの、米市場と大丸呉服店が描かれているだけで、蔵屋敷の藩名は書かれていません。

 天保8(1837)年発行の天保新改攝州大阪全圖には、藩の名前が書かれています。藩名が解答例と一部異なっていますが、解答例は大阪市発行の「新修大阪市史第10巻」付録「図5 天保期の大坂三郷」を参考にしました。

浪華名所獨案内(天保年間)の堂島
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の堂島西部

 こちらは、大阪市パノラマ地図とほぼ同時期の實地踏測大阪市街圖です。大学病院の文字があり、北側には曽根崎川(蜆川)が書かれています。道路拡幅の計画線も入っています。これから大大阪の時代に入っていきます。
實地踏測大阪市街圖(大正14(1925)年発行)の堂島西部

 今昔マップ3を使って、明治42年、昭和7年、昭和30年の各時期の地形図と、最近の航空写真の堂島付近を示しました。明治42年の地形図には「北の大火」の焼失エリアが、昭和30年の地形図には戦災による傷跡が残っています。
 昭和7年と30年の地形図には大学病院の建物も描かれています。右下の航空写真には「ほたるまち」が写っています。
明治42年、昭和7年、昭和30年の地形図、最近の航空写真の堂島付近(今昔マップ3)



(第2回 第2問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の中央上部に「島」とありますが、何という島でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪商業会議所
B NTTテレパーク堂島
C 庭瀬、三日月、久留米、桑名、大村の各藩の蔵屋敷
D 堂島。パノラマ地図では大正13年に曽根崎川(蜆川)の東半分が埋め立てられた姿が描かれているが、それ以前は、堂島川と曽根崎川によって囲まれたまさに「島」となっていた。



 大阪市パノラマ地図に商業会議所が描かれているこの辺りはどのように変化してきたのでしょうか。第1問で紹介した地図では、江戸時代には各藩の蔵屋敷があったことがわかりましたが、その後どのように変わってきたのか見てみましょう。
 明治15年の地図には、堂島の西寄りに「五代氏藍製造場」とあり、この地に五代友厚氏が設立した朝陽館があったことがわかります。

明治15(1882)年発行の「改正新版大坂明細全図」の堂島

 明治33年の地図では、朝陽館の敷地には、北半分に商業学校と測候所、南東に商業會議所、南西に商品陳列所、と敷地が分けられています。藍製造所の朝陽館が廃止された跡地に、五代友厚氏が初代会頭を務めた商業会議所が置かれたほか、これも五代氏が関わったと考えられる商業学校や商品陳列所などの公的機関が立地しています。西隣の大学病院の敷地には明治33年には第一高等中学校がありました。

明治33(1900)年発行の「改正新町名入大阪市新地図」の堂島

 明治44年発行の「実地踏測大阪市街全図」をみると、朝陽館の地には、北側に※、南側に「會議」と※と、赤字で知事官舎とあります。「會議」は商業會議所を略したものです。
 ※の意味は凡例にもなく不明ですが、商業学校は上福島へ、測候所は西区築港へ、商品陳列所は博物場の地である本町橋詰に移転しました。これらの移転にも明治42年の北の大火による被害が影響しているようです。西隣の第一高等中学校も一部被災し、北野の地へ移転しました。

明治44(1911)年発行の「実地踏測大阪市街全図」の堂島


 大阪市パノラマ地図では、「商業會議所」と書かれた赤レンガの建物と、その手前(西側)には緑の中に白っぽい建物が描かれています。知事官舎でしょうか。また、左側の北半分には、赤レンガの大きな建物と、2階建てくらいの複数の小さい建物が描かれています。
 パノラマ地図と近い時期の地図として、大正14年発行の「大阪市街大地図」を見ると、朝陽館の地は、南側は会議所と知事官舎になっていて明治33年から変化はありません。北側は空白になっていますが、大正10年に中之島の市庁舎が竣工して市役所が移転した後のようです。西隣には、大学病院が立地しています。

大正14(1925)年発行の「大阪市街大地図」の堂島

 昭和10年発行の「最新大大阪市街地図」を見ると、大正14年の第二次市域拡張から10年、大大阪の時代の都市改造が動き始めています。地下鉄の完成。市電「阪急前」の左下に、赤地白抜き文字で「地下鐡」とあります。そのほか、堂ビル、新大阪ホテル、大阪ビル(ダイビル)、大阪帝大など、このエリアだけを見ても、いろんな変化が現れてきたことが分かります。
 商業会議所は「商工會議所」と名称が変更されています。新たに、北側に中央電話局、福島電話局が、南側には中央電信局が誕生しています。当時のニューメディアの拠点がこの地に集約されたようです。現在NTT関連のビルがあるのも、この頃の名残と考えられます。

昭和10(1935)年発行の「最新大大阪市街地図」の堂島

このように、パノラマ地図に商業会議所が描かれている土地の使われ方を定点観測してみると、堂島が大阪のまちづくりに大きな影響を与えてきたことがわかります。詳しくは、こちらに「古地図探偵 五代氏藍製造所「朝陽館」のその後」としてまとめています。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/08/blog-post_91.html
 



(第2回 第3問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 地図の中央下に「崎」とありますが、何という地名でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 造幣局
B 独立行政法人造幣局
C 幕府米蔵、木材蔵、津藩蔵屋敷、岸和田藩蔵屋敷
D 川崎の崎

 造幣局は、近代国家としての貨幣制度の確立を図るため、明治新政府によって大阪の現在地(大阪市北区)に創設され、明治4年4月4日に創業式を挙行し、当時としては画期的な洋式設備によって貨幣の製造を開始しました。
 その頃我が国では、機械力を利用して行う生産工業が発達していなかったため、大型の機械設備は輸入するとしても、貨幣製造に必要な各種の機材の多くは自給自足するよりほかなかったので、硫酸、ソーダ、石炭ガス、コークスの製造や電信・電話などの設備並びに天秤、時計などの諸機械の製作をすべて局内で行っていました。また事務面でも自製インクを使い、我が国はじめての複式簿記を採用し、さらに風俗面では断髪、廃刀、洋服の着用などを率先して実行しました。
 このように、造幣局は、明治初年における欧米文化移植の先駆者として、我が国の近代工業及び文化の興隆に重要な役割を果たしたので、大阪市が今日我が国商工業の中心として隆盛を見るようになったのも、造幣局に負うところが少なくないといわれています。
 その後、造幣局は、貨幣の製造のほか、時代の要請にこたえて勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明(ホールマーク)などの事業も行っています。
 平成15年4月1日から、独立行政法人造幣局となりました。
 以上、独立行政法人造幣局さんのホームページから引用しました。


浪華名所獨案内の天満付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の東天満付近
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の東天満付近(今昔マップ3)


(第2回 第4問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 府庁はここへ移転する前はどこにあったでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 二代目大阪府庁
B 中之島リバーサイドハイツ、マンション「阿波座ライズタワーズ」など
C 大坂三郷北組江ノ子島西ノ町の町屋
D 初代大阪府庁舎は本町橋東詰の大坂西町奉行所跡にありました。明治7(1874)年7月に、西大組江之子島上之町(現・西区江之子島2丁目)に二代目庁舎が完成し移転しました。江之子島移転後は大阪府立博物場、大阪府立商品陳列所などを経て、現在はマイドームおおさかなどになっています。


 江之子島の府庁舎の正面が西にあった川口居留地の方向であり、東側に背を向けていたため、市民からは皮肉を込めて、「江之子島政府」と呼ばれていたそうです。

 大正15(1926)年11月に、東区大手前之町(現・中央区大手前2丁目)に三代目庁舎(現在の府庁舎本館)が完成し移転しました。大手前移転後は工業奨励館・後の産業技術総合研究所として使用されました。戦災で庁舎が焼失。現在の大阪府庁舎正面玄関内には旧庁舎の模型が展示されています。現在はマンション「阿波座ライズタワーズ」などとなっています。

浪華名所獨案内の江之子島付近(東が上)
天保新改攝州大阪全圖(天保8年発行)の江之子島付近(北が上)
明治42年、昭和7年、昭和30年の地形図と最近の航空写真の江之子島付近(今昔マップ3)


(第2回 第5問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当 時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか ?
C 江戸時代天保年間には何があった でしょうか?
市庁はここへ移転する前はどこにあったでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、 Cは各3点とします。

解答と解説
A 三代目大阪市庁舎
B 四 代目大阪市庁舎
C 唐津藩の蔵屋敷
D 二代目の庁舎は北区堂島浜通2丁目にあり ました。


 二代目の市庁舎は北区堂島浜通2丁目にあった木造2階建ての議事堂を持つ仮庁舎で、明治45(1912)年5月に竣工し、5月18日に江之子島の旧庁舎から移転しました。

 明治44(1911)年2月、大阪市会では大阪・中之島公園の地に新庁舎を建設するの議を定めました。市はその設計案を懸賞募集とすることで一般の案を募り、大正元年(1912年)9月に行われた審査の結果、応募された65案中3案が優秀案に選定され、この3案を参考に設計されることとなりました。優秀作の第1席は台湾総督府技師小川陽吉の案でした。


 計画は大阪市の財政事情により延期されながらも、大正6(1917)年6月、片岡安により実施設計が行われた後、大正7(1918)年6月に着工し、大正10(1921)年5月に竣工しました。この三代目庁舎落成を記念して大阪市歌が制定されました。
 三代目庁舎は、御堂筋を挟んで片岡安の師・辰野金吾設計の日本銀行が向かい合っていました。

 昭和57(1982)年1月、三代目庁舎の東側に四代目の新庁舎の第1期工事が完工した後、同年5月7日に閉庁式が執り行われ、同年6月11日より取り壊しに着手されました。跡地に新庁舎の第2期工事が昭和61(1986)年1月27日に完工しました。

浪華名所獨案内の中之島付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8年発行)の中之島付近
明治41年、昭和4年、昭和32年地形図、最近の航空写真の中之島付近(今昔マップ3)



(第2回 第6問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 天守閣が再建されたのはいつでしょうか?

 配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。


解答と解説
A 大阪城天守台

B 昭和復興大阪城天守閣
C 江戸期大坂城天守台
D パノラマ地図に描かれている天守台は江戸期の徳川天守のもので、
  この上に豊臣期の天守を模した昭和復興天守閣が昭和6年に再建された。


浪華名所獨案内の大坂城付近(上が東)
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の大坂城付近

 上町台地は大阪のルーツともいえるところで、かつては、上町半島という形でせり出し、西は大阪湾、東は河内湖となっていました。半島の先端部には難波の宮がありました。同じ場所に中世には大坂本願寺(石山御坊)が立地、織田信長に攻められて撤退し、その後、豊臣秀吉が大坂城を築城しました。豊臣大坂城の天守は、地図で貯水池となっている場所にありましたが、夏の陣の後、徳川氏の盛り土によって地中に埋められました。
 徳川氏による大坂城修築工事は3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成しました。その後1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城でした。
 「大阪市パノラマ地図」には、天守台はありますが、天守閣がありません。この天守台は徳川大坂城の天守台です。現在の天守閣は、豊臣時代の大坂城をモデルにした鉄筋コンクリート造の建物で、徳川大坂城の天守台の上に昭和6(1931)年に再建されたものです。地図の発行の7年後に再建されたことになります。
 大正時代に城周辺の公園整備計画が持ち上がり、1928年(昭和3年)、当時の大阪市長、關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し、昭和天皇の即位記念事業として整備が進められました。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎と天守閣の建設がすすめられました。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、大林組の施工で、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成しました。
 当時お城の周辺はほとんど軍の施設で、市民の入れないところでした。天守閣の再建と合わせて、大阪城公園として市民に開放されるようになったとのことです。同時に師団司令部も建て替えられましたが、こちらのほうが天守閣よりもお金がかかったそうです。
 パノラマ地図中の師団司令部となっている木造の建物は、明治18(1885)年に和歌山城から移築された紀州御殿で、司令部庁舎として利用されていました。師団司令部の建て替え後は天臨閣と改称され、戦災には生き残りましたが、昭和22(1947)年、米軍の失火により焼失しました。残っていれば重要文化財級の建築物であったと思われ、残念です。
 現在、初代豊臣期大坂城の石垣を掘り起こして公開する「豊臣石垣公開プロジェクト」が進められています。募金の方もよろしくお願いします。
 昭和6年建設の師団司令部は、戦後、市立博物館として活用されていましたが、大阪歴史博物館の開館に合わせて閉鎖され、現在に至っています。 平成27(2015)年4月1日より大阪城公園は「大阪城パークマネジメント株式会社」が管理することになり、この建物も改修の上でレストラン等の複合施設として使用することとなっています。


明治41年、昭和4年、昭和22年地形図、最近の航空写真の大阪城付近


(第2回 第7問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D 三越はここでいつまで営業していたでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 三越呉服店(百貨店)
B ザ・北浜タワー&プラザ
C 三井越後屋(呉服店)
 1690年以来三井越後屋として長い歴史があったが阪神淡路大震災で被災し規模を縮小した。平成17(2005)年5月5日に閉店し、315年の歴史に幕を下ろした。

 高級呉服店の越後屋(現三越)が店を構えた堺筋は江戸時代、大きな商店が軒を連ねる大阪随一の繁華街だった。三越によると、越後屋はこの当時、京都で仕入れた高級呉服を直送販売して、大いに繁盛しました。
 三越が江戸日本橋と大坂高麗橋に店を構えたのは、東海道五十七次の両端(まちの中心地)を押さえるためという説があります。三井・三越のホームページをみると、
1673(延宝元)年8月 三井高利が江戸本町一丁目に呉服店「越後屋」を開業。店頭現銀売りを始めた。
1683(天和3)年5月 本町から駿河町(現在地)に移転し、両替店(現在の三井住友銀行)を併置。「店前現銀掛け値なし」、「小裂いかほどにても売ります」のスローガンを掲げるが、これは世界初の正札販売だった。
1691(元禄4)年 春 大阪高麗橋一丁目に呉服店と両替店を開設
とあります。

 江戸進出に当たり、当初から江戸随一の呉服店街である江戸本町1丁目に店を借り受けさせ、その後、掛売・掛値の廃止、店先売り(たなさきうり)、反物の切り売りといった新機軸の展開に合わせて現在地の駿河町(日本橋の袂で、正面に江戸城とそのバックに富士山が望めることから駿河町と呼ばれた)に移転し、大店(おおだな)に発展していったそうです。
 大坂への出店に当たっても初めから高麗橋1丁目(1丁目は大坂城に最も近い)に店を構えています。ブランドへのこだわりは事実だったようです。詳しくは、三井広報委員会のHPをご覧ください。
http://www.mitsuipr.com/history/column/08/
http://www.mitsuipr.com/history/column/09/

 堺筋の繁栄は、明治維新後も続きました。大正期、第一次世界大戦などを契機に資本を蓄積した企業や資産家が数多く現れ、勤労者の所得水準の向上や人口の急増も追い風となって、東京、大阪では本格的な消費文化の時代が到来します。ビジネス街としても発展した堺筋には、三越以外にも高島屋、松坂屋、白木屋が相次ぎ出店。昭和の初めにかけて洋風の高層建築物を競って建て、堺筋は「百貨店通り」と称されるほどのにぎわいを見せました。
 しかし、1937年、第7代の大阪市長、関一氏が手掛けた都市大改造計画によって現在の御堂筋が完成し、梅田と難波の鉄道ターミナルが直結されると、街の様相は一変します。人の流れは堺筋から御堂筋へと移り、三越以外の百貨店は続々と撤退していきました。

 三越が堺筋に踏みとどまったのは、旧三井財閥の祖としてのプライドに加え、他の百貨店と違って「顧客に資産家や商家など富裕層を多く抱えていた」(鈴木伸之店長)事情もありました。太平洋戦争後、高度成長期を経て大阪近郊の人口が急増すると三越は攻めに出て、68年には枚方に分店を出店。74年には大阪店に新館(現本館)を建て、大幅増床しました。
 しかし、三越大阪店の業績は、その後20年間で急速に悪化していった。最初の契機は84年、閉鎖した旧神戸店の従業員を引き取る受け皿となったことでした。売り上げが増えないのに人件費だけが増え、店は一気に赤字体質へと変化しました。
 そして、95年に発生した阪神大震災は、三越大阪店を危機に追い込みました。旧本館は外壁に亀裂が入り、内部も各階で水漏れや破損の被害を受けて、三越は旧本館の取り壊しを決定。その跡地に96年5月、現在の新館をオープンさせますが、売り場面積は被災前の約2万3000平方メートルから、半分以下の約1万平方メートルへと減少しました。
 大阪店の売上高は94年から95年にかけて一気に約90億円減少。ピーク時の90年に526億円あった売上高は、95年には6割弱の309億円まで減少していました。

 そんな三越にとってさらに致命的だったのが、97年3月に行われた旧国鉄大阪鉄道管理局跡地の競争入札の敗退。現JR大阪駅の北側に隣接する同跡地に、三越は真っ先に進出を表明、阪神大震災の被災前から、大阪店の移転に強い意欲を示していました。
 被災で取り壊した旧本館は地下1階、地上8階の重厚な洋風建築でしたが、その跡地に建てた現新館は地上2階建ての、中途半端な作り。その理由は、鉄道管理局跡地の入札では下馬評で三越が最も有力視され、三越自身も「どうせ数年すれば梅田に店を移転できる」と受け止めており、本格的な修復投資を行わなかったためでした。
 この誤算によって、新規顧客の獲得もままならない三越大阪店は、さらに窮地に追い込まれていきます。00年には、閉鎖・売却予定だった心斎橋のそごう大阪店の用地取得に動きます。しかし、そごうが売却を撤回、同地で再建することを決め、この計画も立ち消えになりました。
 大阪店の累積損失は84年から03年度末までの20年間で600億円を超え、三越は04年9月、ついに閉鎖と土地の売却を決断しました。315年の歴史を刻んだ堺筋・高麗橋の地を離れる三越は、6年間の空白を経て11年、JR西日本がJR大阪駅北側に建設する大阪駅北ビルに再出店する方針でした。 (以上、2005年5月5日毎日新聞より)

 当初は三越が直営で出店する予定でしたが、三越と伊勢丹の経営統合に伴う三越伊勢丹ホールディングスの誕生に伴い、ジェイアール西日本伊勢丹が運営することになりました。運営会社は異なりますが、事実上2005年に閉店した三越大阪店(大阪市中央区高麗橋一丁目7番5号)の後継店舗です。
 “ファッションの伊勢丹”の独自色を強く打ち出すため、「イセタンメンズ」や「イセタンガール」など、百貨店が独自に商品の品揃えや売場作りを手掛ける「自主編集売り場」の比率を売り場面積の3割にまで高めた異例の構成としていました。
 同じジェイアール西日本伊勢丹が運営するジェイアール京都伊勢丹が好調なのに対して、すぐ近くに強力なライバル店がひしめく同店は、開業初年度500億の売上目標に対して約6割の334億しかあげられず、その後も不振が続いていたため、5万平方メートルから半分程度に縮小する再建策を発表。2014年7月に10階と地下2階以外のフロアが閉店しました。
 2015年4月、建物自体が「ルクア1100(イーレ)」としてリニューアルするのに伴い、ロゴをセレクト感を強調した小文字に変更し、8つの「isetan」ショップとして新たに入居する形となりました。これにより「JR」「三越」の入った「JR大阪三越伊勢丹」の名称は消滅しました。(以上、ウィキペディアより)

 大阪から「三越」の名前が消えてしまったことは寂しいような気もします。

浪華名所獨案内(天保年間)の北船場
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の北船場
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の北船場(今昔マップ3)


(第2回 第8問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D その後松坂屋はどこへ移転したでしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 松坂屋
B 高島屋東別館
C 日本橋筋沿いの長町
D 松坂屋は昭和41(1966)年に天満橋に移転し、その後は高島屋東別館となる。
 
堺筋にあった4つの百貨店の建物で唯一残ったもので朝ドラ「カーネーション」で効果的にロケされていた。


 松坂屋は、大正12(1923)年に南区日本橋筋3丁目(現・浪速区日本橋3丁目)に「松坂屋いとう呉服店大阪店」を開店しました。昭和13(1938)年に大阪店増改築工事が竣工(現・高島屋東別館)しました。
 1960年代前半、市電の廃止と引き換えに地下鉄整備が進むようになったものの、堺筋の市電路線が廃止されたことに加え近辺に地下鉄駅も開設されないなど大阪店周辺の交通環境の悪化で業績を好転させるのは不可能と判断し、新大阪店の候補地を大阪城の北西部に当たる京阪天満橋駅の地下化および駅ビル建設に伴う鉄道利用客の需要を見込み、移転することとしました。1964年4月、京阪電鉄、松坂屋、竹中工務店の3社の出資による京阪ビル(株)を設立、京阪天満橋駅の上部と隣接地に地下4階、地上8階の京阪ビルディングの建設を発表。
 1966年10月1日、東区京橋2丁目(現・中央区天満橋京町)に移転。「桜の通り抜け」や天神祭でも有名な大川沿いに位置し、ガラス張りの休憩室や飲食店からの展望を売りとし、結婚式場をはじめ海外旅行サロン・文化催事場・スポーツ用品センターなどを導入しながら他店との差別化を図りました。しかし梅田を中心とするキタ、心斎橋・なんばを中心としたミナミの大阪市内二大商業地域に人口が集中していた上、天満橋周辺が商業地域というよりもオフィス街という性格上、周辺に人をよびこむことができませんでした。総面積も市内の主要百貨店と比べ狭く、川沿いの立地が災いし売場の増床も事実上不可能でした。
 1973年、1976年にそれぞれ、ファッション部門を強化。1986年から1988年にかけても全館を改装、食品フロア「グルメ館」として再編。1996年、長堀鶴見緑地線の京橋~心斎橋間の開通により、多くの人が心斎橋に流れました。1997年から1999年にかけ食料品フロアを「食彩館」として展開。全館のうち5フロアを女性ファッションフロアに特化して改装、1998年4月8日に新装開店。若者向けの改装のほか人気テナントの導入や業態転換などの方針がとられたが、失敗に終わったとされます。

 以前より松坂屋より京阪側に撤退を含めて検討したいとの要望が出されていたのをきっかけに、岡田邦彦社長(当時)が「競合店が次々とでき、今後、商圏を大きく奪われる。投資しても回収が見込めない状況だ」と述べ、閉店が正式に決定し、2004年5月5日閉店。移転後ただの一度も黒字化を果たせない店舗となりました。移転後には幾多の改装などを行うなどの努力をしてきたにも関わらず、実を結ぶことはできず、閉店後、この京阪ビルディングのうち松坂屋が所有している土地、建物を京阪側に売却。京阪による大規模な改装工事が行われたのち、2004年11月25日に地下2階の食品売り場である「デリスタ」が先行オープンし、その後2005年5月27日に「京阪シティモール」がオープンしました。(以上ウィキペディアより)
浪華名所獨案内(天保年間)の日本橋
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の日本橋
明治41年、昭和7年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の堂島付近(今昔マップ3)


(第2回 第9問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の左上の水面は何でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪陸軍衛戍病院
B 大手前病院
C 大坂東町奉行所と大坂代官所
D 水面は寝屋川。少し下流で大川に合流する。



 衛戍病院は、明治 3(1870)年に開院した最初の陸軍病院で昭和に入り「大阪陸軍病院」に改称、各地に分院が出来「第一陸軍病院」となって終戦。衛戍(えいじゅ)とは、大日本帝国陸軍において、陸軍軍隊が永久に一つの地に配備駐屯することをいい、その土地を衛戍地と称しました。

浪華名所獨案内(天保年間)の京橋付近
天保新改攝州大阪全圖(天保8(1837)年発行)の京橋付近
明治41年、昭和4年、昭和22年の地形図、最近の航空写真の京橋付近(今昔マップ3)


(第2回 第10問)
下の地図は大阪市パノラマ地図のある部分を拡大したものです。
A 地図の中心の赤丸印の場所には当時何があったでしょうか?(建物名、橋名など)
B 現在はどうなっているでしょうか?
C 江戸時代天保年間には何があったでしょうか?
D この地図の右下の水面は何でしょうか?

  配点は、A、Dは各2点、B、Cは各3点とします。

解答と解説
A 大阪陸軍偕行社
B 追手門学院
C 京橋口曲輪(篠の丸)
D 右下の水面は大阪城の堀


 偕行社は陸軍将校の将校倶楽部で付属小学校を併設していた。戦後も軍人の親睦組織「偕行社」として存続している。

大阪市街大地図(大 正14年発行)の京橋口付近

明治41年、昭和22年、昭和42年、最近の地形図(今昔マップ3より)


第1回大阪市パノラマ地図検定解説編はこちらからどうぞ。
http://osakakochizu.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

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